2人の武四郎!北海道命名150年は松浦武四郎、屯田兵は永山武四郎

本日、北海道150年の式典が天皇皇后両陛下もご出席され行われます。

「蝦夷地」から「北海道」に1869(明治2)年8月15日に改名されて150年なのですが、その「北海道」の名付け親が「松浦武四郎」さんです。

ところが時々、サッポロファクトリーの横にある永山公園にゆかりのある「永山武四郎」さんを、この北海道命名の人と勘違いをされている方がいます。

二人とも、同じ「武四郎」さんであり、同じ明治時代に北海道へ大きな貢献をされた方であるので、間違えても仕方ないのですが。。。

今日は、ちょっとお二人の武四郎さんについて、簡単にご説明します。

●松浦武四郎

こちらの武四郎さんは、江戸時代終わりから明治時代にかけて活躍した探検家で、6回も蝦夷地(北海道)の探査を行い、アイヌの人々とも交流を深めて、蝦夷地の詳細な記録を数多く残されたた方です。

アイヌの人々が蝦夷地で安心して暮らせるようにという強い思いで行動した人で、蝦夷地の第一人者として明治政府の一員となり、明治政府に対しで、蝦夷地に代わる新たな名称として「北海道」のもととなった「北加伊道」を含む6案を提案しました。

その候補6案とは「北加伊道」のほかに「日高見道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」でした。

明治政府が「北加伊道」の「加伊」を「海」に改めて、現在の「北海道」と命名されたそうです。

●永山武四郎

こちらの武四郎さんも北海道の発展に大きく貢献された方で、第2代北海道庁長官を務められた方です。

もともと薩摩藩の方ですが、北海道の防衛と開拓が自分の新しい使命であると考えていて、この頃の北海道は対ロシアへの備えが大きな課題であり、明治政府が永山武四郎を北海道に派遣したのがきっかけです。

1872(明治5)年9月、この前年に札幌にできた開拓使庁で、開拓使顧問ケプロンが来日し北海道各地を視察、その後の道筋がつけられ始めた頃ですが、永山武四郎は開拓使八等出仕として初めて北海道・札幌に在勤することになります。

ここから永山武四郎の一生は、北海道の屯田兵の育成に終始します。1873(明治6)年に、北海道警備の必要性から屯田兵制度設立の建白書を提案し、明治政府に認められ、1874(明治7)年10月に屯田兵条例が制定されました。

1882(明治15)年に開拓使が廃止され、札幌・函館・根室に三県が設置され、屯田事務局が陸軍省に移管され、その名称が屯田兵本部・屯田兵司令部・第七師団本部へと変わっていきますが、永山武四郎は全てで最高責任者として仕事にあたりました。

屯田兵の制度により、北海道への入植が1899(明治32)年までに道内37兵村・7337戸・約4万人の兵員とその家族が北海道の土を踏んだことになり、永山武四郎の生涯約30年の大仕事が、この北海道の地にもたらした影響は計り知れないものとなったのです。

退官後に東京へ戻ってからも病床で「わしは屯田の兵たちに、北海道の土になれ、わしも北海道の土になると言ってきた。東京で死ぬわけにはいかん。札幌に帰って死ぬのだ」と言って、東京で無くなられましたが、豊平墓地(現在は里塚霊園に移転)に埋葬されています。

歴代の北海道庁長官の中で、札幌に自邸と墓があるのは永山武四郎一人だけです。その元自邸が、現在は永山公園となっています。

サッポロファクトリーの奥隣り、北3条通りと北2条通りの間にありますので、1度行ってみて下さい。

昨年から今年にかけて大工事もされ、なかなか雰囲気の良い公園です。

それではまた。。。

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